ニョクマム(Nước mắm)はベトナムの魚醤で、カタクチイワシを塩漬けし木桶で熟成させた発酵調味料である。なかでもフーコック島産のものはEU規則1151/2012に基づく保護原産地呼称(PDO)に登録されており[1][2]、同島で伝統製法により生産されたものだけがこの名称を名乗れる。この制度はパルマハムやシャンパーニュと同じ枠組みで、生産全工程が特定地域で行われることを要件とする[2]。ベトナム料理の味の土台を成す調味料だが、輸入食材店で複数の銘柄を目にしたとき、等級表示や産地の違いが何を意味するのか分かりにくい。
ニョクマムとは――ベトナムの魚醤
ニョクマムは東南アジア全域で使われる魚醤の一種で、ベトナム語で「魚(cá)の水(nước)」を意味する。カタクチイワシ(cá cơm)を主原料とし、塩と魚を層状に重ねて木桶に詰め、数か月から数年かけて発酵・熟成させる。微生物の働きで魚のタンパク質がアミノ酸に分解され、グルタミン酸を中心としたうま味成分が生まれる。この製法は日本の醤油や味噌と同じく醸造発酵に分類され、塩分濃度は15〜25%程度で推移する。
タイのナンプラー、フィリピンのパティス、日本のしょっつるも同系統の魚醤だが、ニョクマムは使用する魚種と熟成期間の長さで区別される。カタクチイワシの脂質含有量が低く、長期熟成に向く点が特徴である。ベトナム国内では南部のフーコック島と中部のクイニョン(Quy Nhơn)が二大産地として知られ、前者は透明度の高い琥珀色、後者はやや濃色の製品を産する。
家庭では炒め物や煮込みの塩味付け、生春巻きのつけダレ(ヌックチャム:ニョクマムに砂糖・ライム・唐辛子を加えたもの)に用いる。調理中に加熱すると魚臭さが和らぎ、うま味だけが残る。日本の醤油と同様に、料理の最後に回しかけるのではなく、調理の途中で加えて味を馴染ませる使い方が一般的である。
魚醤の分類と製法の違い
魚醤は製法により大きく二つに分かれる。ひとつは全魚発酵型で、魚を丸ごと塩漬けして自己消化酵素と微生物の力で液化させる。ニョクマムはこのタイプに属する。もうひとつは魚卵・内臓のみを用いる部分発酵型で、日本のいしる(能登)やしょっつる(秋田)がこれに当たる。全魚発酵型のほうが熟成に時間がかかるが、うま味成分の総量は多くなる傾向がある。
塩の種類も風味を左右する。ベトナムの伝統製法では天日塩(muối biển)を用いる。天日塩はミネラル分が残り、海水を天日で蒸発させるだけなので製塩コストが低い。一方、工業生産では精製塩を使うこともあり、その場合は塩味がシャープになるが、ミネラル由来の複雑味は減る。フーコック島では海水を直接引き込んで塩田を作り、その塩を魚醤の仕込みに使う一貫生産が行われてきた。
| 製法の要素 | 伝統型(フーコック) | 工業型 |
|---|---|---|
| 原料魚 | カタクチイワシ(生鮮) | 冷凍魚・混合魚種 |
| 塩 | 天日塩 | 精製塩 |
| 容器 | 木桶(杉・松) | ステンレスタンク |
| 熟成期間 | 12〜18か月 | 3〜6か月 |
| 一番搾り取得率 | 約30% | 50%以上(圧搾併用) |
木桶は内壁に微生物が棲みつき、世代を超えて発酵を安定させる役割を果たす。ステンレスタンクは衛生管理がしやすく大量生産に向くが、木桶特有の香気成分(バニリンやフェノール類)は生まれにくい。
フーコック産のEU PDO登録――欧州で保護される製法
ベトナム・フーコック島のニョクマムは、EU規則1151/2012が定める保護原産地呼称(PDO: Protected Designation of Origin)に登録されている[2]。この制度はパルマハム(イタリア)、ロックフォールチーズ(フランス)、シャンパーニュ(フランス)などと同じ枠組みで、生産・加工・調製の全工程が特定地域で行われることを要件とする[2]。対して保護地理的表示(PGI: Protected Geographical Indication)は少なくとも一工程が当該地域で行われれば認められる[2]。フーコック産ニョクマムはより厳格なPDOを取得している点で、製法と産地の結びつきが強いと評価されている。
EU eAmbrosiaのデータベースには「Phú Quốc」(フーコックのベトナム語表記)としてニョクマムが登録されており[1]、同島で伝統製法により生産されたものだけがこの名称を名乗れる[1]。登録要件には原料魚の種類(カタクチイワシ)、塩の産地(フーコック近海の天日塩)、熟成期間(最低12か月)、木桶の使用が含まれる。EU市場への輸出時には、この登録が品質保証の役割を果たし、模倣品との差別化を可能にしている。
フーコック島はベトナム最南端、タイランド湾に浮かぶ島で、面積は約574平方キロメートル。年間を通じて高温多湿で、魚醤の発酵に適した気候が続く。島の西岸には魚醤工場が集中し、木桶を屋外に並べて天日熟成させる光景が見られる。EU PDO登録により、島外で製造された製品が「フーコック産」を名乗ることは欧州市場では認められなくなった。
PDOとPGIの違い
PDOとPGIはいずれもEU規則1151/2012に基づく地理的表示制度だが、要件の厳格さが異なる[2]。PDOは原料の調達から製造・熟成まで全工程を指定地域内で完結させる必要がある[2]。PGIは原料の一部を域外から調達してもよく、少なくとも一工程(例えば熟成のみ)が当該地域で行われれば登録できる[2]。この差は製品の個性が地域の風土とどれだけ不可分かを反映している。
フーコック産ニョクマムがPDOを取得できた背景には、島内で魚の水揚げ・塩の生産・木桶熟成が一貫して行われてきた歴史がある。原料魚は島周辺の海域で獲れたカタクチイワシに限定され、塩も島内の塩田で作られる。この一貫性がPDOの要件を満たした。
木桶熟成の伝統製法
フーコック島の伝統製法では、杉や松の木桶(高さ約2メートル、容量1〜2トン)を用いる。魚と塩を3:1の重量比で層状に積み重ね、最上層に重石を載せて魚から水分を押し出す。桶の底には竹製のすのこを敷き、液体だけが下に溜まる構造にする。仕込みから3か月ほどで液体が桶の半分まで上がり、6か月を過ぎると琥珀色に変わる。12か月を超えると香りが丸みを帯び、18か月で一番搾り(nước mắm nhỉ)を抜き取る。
木桶の内壁には酵母や乳酸菌が棲みつき、世代を超えて発酵を安定させる。新しい桶を使う場合は、最初の数回は風味が安定せず、3〜5年使い込んでようやく「育った桶」と呼ばれる状態になる。このため老舗の工場では桶を代替わりさせながら使い続ける。木材由来のバニリンやリグニン分解物が微量に溶け出し、ステンレスタンクでは得られない香気成分を生む。
熟成中の温度管理は自然任せで、フーコック島の年間平均気温27〜30度が発酵を促す。雨季(5〜10月)には湿度が上がり発酵が加速し、乾季(11〜4月)には熟成が穏やかに進む。この季節変動が複雑な風味を生む要因とされる。工場によっては桶を屋外に置き、直射日光を避けながら風通しを確保する配置を工夫している。
一番搾りと二番搾り
熟成後、桶の底部に設けた栓を開けて最初に流れ出る液体が一番搾り(nước mắm nhỉ、またはnước mắm cốt)である。透明度が高く、琥珀色から淡い茶色を呈し、グルタミン酸濃度が最も高い。タンパク質含有量は15〜20グラム/100ミリリットルに達する。この一番搾りは桶に仕込んだ魚の総重量の約30%しか取れず、高級品として扱われる。
一番搾りを抜いた後、桶に塩水を加えて数週間置き、再び液体を抜き取ったものが二番搾り(nước mắm nhì)である。うま味成分は一番搾りより薄く、塩味が前面に出る。業務用や加工食品の原料として使われることが多い。さらに三番搾りまで行う工場もあるが、その液体は飼料や肥料に回される。
| 等級 | ベトナム語表記 | タンパク質含有量(g/100mL) | 用途 |
|---|---|---|---|
| 一番搾り | Nước mắm nhỉ / cốt | 15〜20 | 生食用ダレ、仕上げ |
| 二番搾り | Nước mắm nhì | 8〜12 | 炒め物、煮込み |
| 三番搾り | Nước mắm ba | 5以下 | 飼料、肥料 |
市販のボトルには「40度」「30度」といった数値が表示されることがある。これは窒素含有量を示す単位(度数)で、数値が高いほどタンパク質由来のアミノ酸が多い。40度は一番搾り相当、30度は二番搾りに近い。ただしこの表示は法的に統一されておらず、メーカーによって基準が異なる場合がある。
等級(ニー=一番搾り)の見方
ニョクマムの等級は、主にタンパク質含有量と抽出の順番で決まる。ボトルのラベルに「Nước mắm nhỉ」または「Nước mắm cốt」と書かれていれば一番搾りである。英語表記では「First press」「Extra virgin」と訳されることもあるが、後者はオリーブオイルの用語を借りたもので、厳密な定義はない。購入時に確認すべきは次の三点である。
第一に、原材料表記。「Cá cơm(カタクチイワシ)、muối biển(天日塩)」のみで、添加物や糖類が含まれていなければ伝統製法に近い。砂糖や増粘剤が入っている製品は、つけダレ用に調整済みのもので、調理用には向かない。第二に、産地表記。「Phú Quốc」の記載があればEU PDO登録製品の可能性が高い。第三に、タンパク質含有量。栄養成分表示で15グラム/100ミリリットル以上なら一番搾り相当と判断できる。
色も目安になる。一番搾りは透明度が高く、光にかざすと琥珀色に輝く。二番搾りはやや濁り、茶褐色が強い。ただし熟成年数が長いと一番搾りでも濃色になるため、色だけで等級を断定するのは難しい。開栓後の香りは、一番搾りなら魚臭さより先にうま味の甘い香りが立つ。二番搾りは塩気と魚の生臭さが前面に出る。
ラベル表示の読み方
ベトナム語のラベルには次のような表記が見られる。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| Nước mắm truyền thống | 伝統製法 |
| Nước mắm Phú Quốc | フーコック産 |
| Nước mắm tự nhiên | 天然発酵(化学調味料無添加) |
| Độ đạm | 窒素度数(タンパク質含有量の目安) |
「Độ đạm 40°N」は窒素含有量40グラム/リットルを意味し、タンパク質換算で約25グラム/100ミリリットルに相当する。この数値が高いほど一番搾りに近い。ただし製造者によって測定方法が異なるため、異なるブランド間での直接比較は難しい。
輸入品の場合、日本の食品表示法に基づく栄養成分表示が追加される。ここで「たんぱく質 15.0g/100mL」と記載されていれば、ベトナム表記の「40°N」とほぼ一致する。塩分相当量も確認できるため、料理の塩加減を調整する際に役立つ。
保存と使い分け
ニョクマムは開栓後も常温保存が可能だが、直射日光を避け冷暗所に置くと風味が長持ちする。一番搾りは生食用ダレ(ヌックチャム)に使い、加熱調理には二番搾りを使うのが経済的である。一番搾りを加熱すると香気成分が飛び、せっかくのうま味が減る。炒め物や煮込みには二番搾りで十分塩味とうま味が出る。
開栓後数か月経つと、液面に白い結晶が浮くことがある。これはアミノ酸や塩分が析出したもので、品質劣化ではない。スプーンで取り除くか、そのまま使っても問題ない。逆に、液体が濁ったり異臭がしたりする場合は、保存状態が悪く微生物が繁殖した可能性があるため、使用を避ける。
結論
ニョクマムはベトナムの魚醤であり、フーコック島産のものはEU規則1151/2012に基づくPDOに登録され[1][2]、生産全工程が同島で行われる伝統製法が保護されている[2]。木桶で12〜18か月熟成させた一番搾りは、タンパク質含有量15〜20グラム/100ミリリットルに達し、透明度の高い琥珀色とうま味の深さで区別される。等級は「Nước mắm nhỉ」の表記とタンパク質含有量で判断でき、生食用ダレには一番搾り、加熱調理には二番搾りを使い分けると風味と経済性を両立できる。
輸入食材店で複数の銘柄を目にしたとき、産地表記「Phú Quốc」と原材料「Cá cơm、muối biển」の組み合わせが伝統製法の目印になる。PDO登録製品はEU市場での品質保証を受けているため、模倣品との差別化が図られている。日本国内でも栄養成分表示のタンパク質量を確認すれば、等級の見当がつく。一番搾りを一本常備しておけば、生春巻きのつけダレや刺身の醤油代わりに使え、ベトナム料理以外の和食・中華にも応用できる。
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参考文献
- EU eAmbrosia: Phú Quốc(ヌクマム)PDO登録
https://ec.europa.eu/agriculture/eambrosia/geographical-indications-register/ - EU規則1151/2012(農産物・食品の品質スキーム)
https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=CELEX:32012R1151
